禅仏教の教え
- 禅宗は、釈尊が菩提樹の下で悟られた、その悟りをみずから直接体験することを唯一の目的としています。
- 禅というのは、経典の言句によるのではなく、自身の体験によって経典の心をストレートに悟るものである。
- こうした禅の思想を端的にあらわしている四つの句があります。
不立文字
- 釈尊の悟りの内容をすべて文字で表現し尽くすことは不可能です。
実際に体験してみることが、どんな言葉や文字にまさるのです。
「あらゆるものに仏性がある。」と言うことを説き明かしたものが教典です。
しかし、この真理を単に知識として知っているだけでは、本当にわかっているとはいえません。自分自身が仏であるという自覚と働きがなければ知っていることにはならないからです。
その自覚のためにも、一日わずかな時間でもいいですから坐禅をすべきなのです。
ただし、文字や言葉に限界があるからといって、まったく否定するのではありません。限界があるからこそ、文字や言葉を大事に有効に用いなければならないというのが不立文字の意味でもあります。
教外別伝
- 釈尊の教えの真髄は、文字や言葉では伝えることができません。
心から心へと、直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意味するところです。
したがって、教外別伝とは教のほかに別に伝があるのではなく、師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることである。
また師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない とするのが教外別伝の内容と理解していいでしょう。
弟子は、師匠の日常の立ち居振る舞いを見ながら、自己を磨いていくのです。何事も自分の努力で体得して、初めて自分のものとすることができます。また、目に見えないものを見抜いて、初めて心から納得することができるのです。言葉や文字では、究極のところは伝わりません。
直指人心
- 直指人心とは、「直ちに人の心を指す」ということですが、人の心つまり人心と仏心とは、本来別の心ではありません。私たちの心の中には、もともと仏心が具わっているのです。
この事実を忘れているために、私たちはあれこれと迷ってしまうのです。そこで、直指になるわけです。教育・思索とかいった、もってまわった方法を取らずに、一直線に「自分の心が仏心にほかならない」と指し示すのが直指なのです。無性である真実の自己、自分の心の中にある仏性を直ちに観てとれといわれるのです。文字や頭で理解するのではなく、弟子を殴りつけるような直截的かつ独自の方法で導くのです。このように、人間の本性つまり仏性を直指させる、直接体験させる方法を禅宗ではとりますが、これを直指人心といいます。
見性成仏
- 直ちに指し示される人心とは、私たちの心の奥にある仏心にほかなりません。この仏心、つまり真の人間性に出会い、まみえて、自分が、ほんとうの自分になることを「見性成仏」といいます。
仏というのは真実の人間のことですから、成仏とは人間完成であり、人間成就のことなのです。見性の「性」とは「心」と同じ意味で、人間の本性のなかに、仏となるべき仏性がひそんでいるということです。借りに、迷いに満ちている醜い心であっても、その心に成仏の因である仏性があり、煩悩(一切の妄念)の心に仏となる功徳が宿っているとみすえるのが見性成仏ということになります。
心というのは、求めても求めてもつかめるものではないし、決まった形がないという事実を、みずから観念ではなく体験として知ることが「安心」を得ることであり、成仏することなのです。
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