2012-03-07

臨済の教え


臨済宗の教義は、いうまでもなく宗祖・臨済禅師の挙揚した禅の宗旨を根本としており、その教えは、「臨済録」に伝えられています。
「臨済録」にみられる特徴は、如来とか仏といった既成の仏教用語ではなく、宗教的人格をあらわす「人」という言葉を使っていることです。如来とか仏というと、どうしても人間よりも超越した存在のようにとらえてしまうことから、極力そうした用語を避けています。
宗教的人格者とは、「人間とは何か」「人間はどうあるべきか」「どう生きるべきか」を自分自身に引き寄せて、その真理をうなずきとる自覚の経験をした人であり、臨済禅師はこの宗教的人格者を「真人」、又はただの「人」と呼んでいます。

一無位の真人

「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ、看よ」(お互いのこの生身の肉体上に、何の位もない一人の本当の人間、すなわち「真人」がいる。いつでもどこでも、お前たちの眼や耳や鼻などの全感覚器官を出たり入ったりしている。まだこの真人がわからないものは、はっきり見届けよ)
木魚でひるね釈尊の教えは、現実に生きている人間のためにとかれたものであることは言うまでもありません。臨済禅師の教えも、その生きた人間とは何であるかをはっきり自覚し、そこから世の中を正しく見ていこうという点から出発しています。
人間は自分を見つめるとき、初めは実体的な自己の存在に何の疑いも持ちません。しかし、さまざまな問題に悩み、壁にぶつかって、さらに自己を掘り下げて見つめていくと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。そこで、本当の自分とは何か、人間とは何か、という問題につきあたるのです。
臨済禅師は、この真実の自己を「一無位の真人」と表現されました。
「無位」とは、一切の立場や名誉・位をすっかり取り払い.何ものにもとらわれないということです。
「真人」とは、疑いもない真実の自己、すなわち真実の人間性のことで、誰でもが持っているものである。この真人は、単に肉体に宿るだけでなく、人間の五官を通して自由自在に出入りしています。
未だこの「一無位の真人」を自覚していない者は、ハッキリと見つけなさい。

随処に主と作れば、立処皆真なり

(その場その場に全生命を打ち込んで行動していくならば、そこがかけがえのない真実の世界となる。)
これは、何処でも自分が主役・大将になることではありません。自分がどんな環境に置かれようとも主体性を失わずに生きていくということです。
その時、その場で無心に働けば、それに応じて自らを生かし、さらに他者をも生かすことができるのです。それは、坐禅の時だけではありません。食事、仕事、学業など日常生活すべてにわたって、その時点でなすべきことに自己を完全燃焼するのが、主体性を保つことなのです。
他のことに心を奪われず、一事に自己を投げ出せば、その人の発言も沈黙も、立つも坐るも、すべてが真実となるのです。
このように主体性をもって生きるならば、充実した生き方をしていれば、自分のまわりのものをすべて生かしきっていくことができるということなのです。

無事是れ貴人

「無事是れ貴人。但だ造作することなかれ。祇だ是れ平常なり」(無事の人こそ貴人である。あれこれと、はからいをしてはならない.ただ平常であることだ。)

この無事という言葉の意味は、危険や不安がないとか健康であるといったことではありません。何かを求めたり執着する心のないこと、つまり、無心そのままを無事といいます。又、悟りを開こうとか仏になろうなどと求めたり、とらわれることを「造作する」といい、こうした造作をしないことが「無事」であると臨済禅師は教えています。
「貴人」も、社会的地位が高いとか金持ちであるとかいった上級社会の人という意味ではなく、「無事の人」と同じ意味なのです。欲しがりもせず、とらわれもしない人を「貴人」というのです。
平常とは、執着心を離れ、ありのままに日常を立ち居振る舞う心と言うことです。つまり、平常心で行住坐臥すれば、そのままが仏法であり、仏道であるから、それ以外に何を求める必要があるのかと臨済禅師は言い切っています。

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