2012-03-17

死を見つめることの意味について

人間にとって、いや、生きとし生ける者すべてにとって、死は避けては通れない厳とした事実であり、これほど揺るぎない確かな真理もほかにない。
そして仏教では、あらゆる存在が生滅変化をし続けるこの真理を「無常」といい、これを見つめることを修行の要としてきた。
無常を自分の側に当てはめてみれば、それはすなわち、自己の「死」を見つめるということにほかならない。
では、解脱を求めんとする出家者はともかく、在家、一般の人々に「死」を見つめ、
受け入れる生き方を敷衍することにはどのような意味があるだろうか。考えてみたい。
 ローマ皇帝であり偉大な哲学者でもあったマルクス・アウレリウスは、人生をいかに宇宙的に意味あるもの、
価値あるものにするかについて生涯をかけて問い続けた稀有な人物である。
彼は人が死に臨むときの態度として、こう述べている。
「死を軽蔑してはならない、むしろそれがやってくるのに微笑みかけなさい。死もまた自然が願うことがらの一つなのだ。
青春と老い、成長と成熟、歯や髭や白髪があらわれること―人生の季節がもたらすそのほかのすべてのことがらと同じように、
われわれの消滅もあるのだ。したがって理性ある人間は、死に対して、軽んじたり、短気になったり、軽蔑してはならない。
彼は、それを自然のもう一つの移り変わりとして待つのである。」
 アウレリウスの哲学には、その根本に宇宙の摂理に対する全面的な信頼があった。
だからこそ、「死」を従容として受け入れることが、宇宙自然の摂理にかない、人の道にもかなうと考えたのである。
また、アウレリウスが依って立つストア派は、宇宙は存在するすべてを包括しているがゆえに、
人間個人も厳密かつ完全な意味において宇宙の一部であるとした。
見方を変えれば、宇宙の事象と人間の行為は異なる次元のできごとではないとも言えよう。
だから、われわれが宇宙の摂理としての「死」を安らかに受け入れることが、
そのままストア派が目指した人間と宇宙との一致をなす行為にもなるのである。
 そして私は、こうしたアウレリウスの哲学的実践を推し進めていけば、
道元禅師の正法眼蔵生死に示されている境地にまで近づいていくのではないかとも考えている。
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへに投げ入れて、仏のかたよりおこなはれてこれにしたがひもてゆくとき、
ちからをいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ仏となる(正法眼蔵生死)」。
 アウレリウスの言う、「宇宙・自然」と、道元禅師が説く「仏」は、完全に同定はできないまでも、
その根本には同じ水脈が通っていると言っても過言ではあるまい。
 いずれにしても、宇宙の摂理を信頼して、「死」を受け入れることの中に、人生の迷いや苦悩を離れる鍵があることを、
両者の言葉は示唆しているように思われるのである。
 もっともアウレリウス、道元禅師の言葉を引用しなくとも、「人生、終わりよければすべてよし」ということは、誰しも異論はないところだろう。
なぜなら、死は人生の総決算であり、死を受け入れ、死を安らかに迎えるということが、
これまで生きてきた人生をすべて肯定することにもつながるからである。
しかし、われわれの人生、一寸先は闇であり、いつなんどき命を落とすか分からない。
だからこそ、その時が来て準備するのではなく、日頃より、己の死を見つめることが、死に臨んで恐れ、
慌てふためかないための訓練として必要になってくるのである。
 そしてさらに大事なのは、日々死を見つめることの最大の恩恵が、実は日々の暮らしの中に端的に現れ、人生の質が飛躍的に高まるということである。
なぜだろうか。それは、自己の死を見つめ、人生の有限性を感じている者には、日々の一瞬一瞬がかけがえのないものになり、
日常の一コマ一コマがこの上なく尊く美しいものに感じられてくるからである。
自分の環境が変化するのではない。そのとき、自分の心のあり方が大きな転換を遂げるのである。

ここで一編の詩を紹介したい。

「電車の窓の外は」高見順

電車の窓の外は
光にみち
喜びにみち
いきいきといきずいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた景色が
急に新鮮に見えてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている
だのに私は死ななければならぬ
だのにこの世は実に幸せそうだ
それが私の心を悲しませないで
かえって私の悲しみを慰めてくれる
私の胸に感動があふれ
胸が詰まって涙が出そうになる
                終わり     
おそらく詩人は、医者に余命を宣告されたのだろう…。詩人は、おのれの死が近いうちに訪れることを予見している。
そして同時におのれの死を見つめ受容している。
そのとき、これまで慣れ親しんできた世界の景色が一変して輝きに満ちあふれ、こみ上げてくる世界への愛おしさが、
詩人の心、詩人の魂を浄化していく、そんな心象風景がこの詩には現れている。
死に臨んでの本心を言えば、やはり、この世と別れることは寂しいし、悲しかろう。
それが「愛別離苦」というものであり、この苦しみは生易しいことで消えてなくなるものではない。
しかし、自分の死を見つめ、受け入れた時には、個人的な悲しみを含みつつもそれを超えた、この世界、この宇宙に対する慈しみの念が溢れてくるのだ。
それは自我愛の束縛が解けて、他者への慈愛が解き放たれるからにほかならない。
道元禅師は他者と言わずに「他己」という語を用いたが、このときはじめて私たちは、自己と他己が現象的に異なっていても本質的に同じであり、
一体であることに気付くのであろう。他己もまた己の一部なのである。
そこから広がる世界が、果たして輝かずにいられるだろうか。
 命という命は、ひとつの例外もなく致死率100%である。
しかし、人々は誰しも訪れる「死」を遠ざけ「死」から目を背けたがる。
なぜならそれは、人々が死によって自分の物すべてを失ってしまうと考えるからにほかならない。
とりわけ人々は、自我意識と密接に結びついた「私の命」を、私そのものと信じて疑わない。
その結果、人々にとって「命」を失うことは、「私」を失うことと意味が等しくなる。だからこそ人々は、何よりも死を恐れるのである。
 そして仏教ではこうした「私」へのこだわりを「無明」といい、煩悩の根源であることを明らかにした。
私たち人間は無明であるがゆえに「私」という妄想にしがみつき苦悩し、「無我」の真理に気付くことができない。
気付くことができないから、また「私」にしがみつく。いわば煩悩の堂々巡りである。
 だから仏教は自分の「死」を見つめ、受け入れることによって、命の「無我性」に気付かせようとしてきた。
それに気付くと、自己(の命)への過剰な執着がなくなるのと同時に、自己愛が他己へと広がり、世界への慈悲が開かれ、
菩薩道の大乗精神が発露するのだ。
 動物の中で死を自覚できるのはおそらく人間しかいないであろう。「死」を見つめるということ。それはすなわち自己を明らめるということである。
私にはそこに人間として生まれたことの意味があり、さらには、そこに私たちの生き方を飛躍的に高める鍵があるように思われてならないのである。
                 以上